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VOICE

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2023年 12月 17日

【今年ももうあとわずか】


今年、皆様からお預かりいたしました義援金を、以下のように集計し、日本赤十字社に送金いたしました。


2023年07月01日  『大・生誕祭3』 
〇 金 1,410円 也

2023年10月29日  『大・文化祭 beyond vol.2.0』
〇 金 3,721円 也

大・文化祭実行委員会 会計より
 金 1,000円 也

中西保志 より
 金 1,000円 也

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 合計 7,131円 也

ご協力、ありがとうございました。






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スカイツリー

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結構な人出。外国の人も多し

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今年は明治座

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なんか一年、早いはやい








# by simplex-YN | 2023-12-17 21:26
2023年 12月 07日

【400登録突破記念!】


いやあ、やっぱり「名前」って大事ですね。

「中西保志チャンネル」にしたら、登録者がぐんぐん伸び始めました。

記念動画を上げときます。







# by simplex-YN | 2023-12-07 21:26
2023年 11月 17日

【KANさん・・・】

最近、お見掛けしないな、どうされてるんだろう、と思っていました。


僕とは同年代で、日本の音楽史・歌謡史に残る大ヒット曲を生み出される少し前から、なんとなくは存じ上げておりました。

しっかりと話しが出来たのは、僕が司会を務めていた関西ローカルの音楽番組の収録現場、おそらくはただその一回ではなかったか、と思います。

飄々とした、気さくで冗談好きな性格の方で、ビリー・ジョエルやモータウンの話でトークも盛り上がった印象がありました。


自分たちのような立場は、「あの○○のだれだれ」と、ヒットした作品と共に認識されることになるので、それはとても有難いことではあるのですが時にはそれが少し窮屈で息苦しく感じられる時があるものです。
でも彼は「オレはオレだもーん」というような、ある種の「達観」を持っていらしたようで、その後の作品はそれ以前にもまして自由でアーティスティックな内容であった気がします。

彼の素晴らしい作品たちは、これからもみんなを勇気づけ、輝き続けることでしょう。



それにしても・・・

同世代が旅立つのは、堪えます。



KANさん

良い旅を




# by simplex-YN | 2023-11-17 11:50
2023年 11月 14日

【『-1.0』とゴジラ映画を語ろう】

【『-1.0』とゴジラ映画を語ろう】_d0326861_01020328.jpg

「ゴジラ映画の最新作、いろんなところで話題になってるみたいだね」

「へえ、君でも知ってるくらいだから、かなりヒットしてるんだな」

「おかしな言い方するなよ。僕だって「ゴジラ」の映画くらいは見たことあるよ」

「じゃあ、君はいったい「どのゴジラ」を見たんだい?」

「ええっと、たしか10年くらい前のロードショーで見たよ。ハリウッドの映画だったな。日本の俳優の、渡辺謙が出ていたっけ」

「洋画ファンの君らしいな。
それは、2014年公開の、ギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』という作品だね。

当時は日本でのゴジラ映画がまったく制作されない、いわば「空白時代」だったんだ。
でも、「ゴジラ」そのものの人気は当時日本よりアメリカの方がずっと高かった。
何と、アメリカでは、1954年の第一回作品以来、東宝制作のすべての「ゴジラ」映画が全米で劇場公開されているんだ。
2003年、プロ野球・読売巨人軍からMLBニューヨークヤンキースにトレードされた松井秀喜選手の愛称は「ゴジラ」だった。日本でそう呼ばれていたんだが、それがそのままアメリカでも通用した。
アメリカのビッグアーティスト、エミネムにはズバリ『GODZILLA』というヒット曲もあるし、極めつけは2018年、あのNASAが正式に「ゴジラ座」という星座を認定した。
それほど「GODZILLA」はアメリカでポピュラーな存在なんだよ。

そこに目を付けたハリウッドが、「ゴジラ」の権利を持つ東宝と契約して、ハリウッド版「ゴジラ」を制作したんだ。
もっとも、ハリウッド版という意味ではその16年前、『インディペンデンス・デイ』で有名なローランド・エメリッヒ監督が1998年に『GODZILLA』の第一作を制作しているから、2014年はそのリメイクとも言えるんだけどね。で、見てどうだった?」

「ううん、よく覚えてないんだけど、何か気持ちの悪い虫みたいな敵怪獣が何匹も出てきてゴジラと闘うんだけど、正直あんまり印象に残らなかったなぁ。
でもCGがとにかく綺麗だったし、全体に「お金がかかってる」って感じだったよ」

「それもそのはず、君が見た「ゴジラ」は、製作費1億6千万ドル(現在の価値で約240億円)、世界興行収入5億3千万ドル(約800億円)という、とてつもない超大作だったんだ」

「ひえぇええええーーーっ!
スゴすぎない?製作費もだけど、収入も、トンデモナイなぁ」

「その後もハリウッドでは「モンスター・ヴァース」というシリーズタイトルで、同規模の超大作怪獣映画を続々と製作・公開している。
まあハリウッド作品は全世界が市場という事もあり、巨額の資金をつぎ込んで、その何倍もの収益を上げる、っていう「ビッグビジネス」になりがちなんだ。
ただし、内容がつまらなくって、お客が入らなかったら、それこそ百億単位の「赤字」をしょい込まなきゃならない、「オールオアナッシング」のギャンブルビジネスになってしまっているんだね。

そういうわけで「大ゴケ」を回避するために、全世界の人が楽しめるような「最大公約数」を押さえた、徹底した「エンタメ(エンターテインメント)作品」にする必要がある。
だから、作品の内容は完全にハリウッドオリジナル化されてしまって、原作の『ゴジラ(1954年)』が持っていた、反戦・反核実験、というようなメッセージ性はキレイさっぱり無くなって、単なる巨大怪獣大暴れ、みたいなプロット(あらすじ)の脚本になってしまうんだ。

要するに、スーパーマンやバットマン、マーベルのような「アメリカンヒーロー」と変わらない感じになりがちなんだな」

「なるほど、そういう事か。でも、「エンタメ作品」なんだから、その方向性は間違ってないんじゃないの」

「うーん、そうとも言えるし、そう言い切れもしない、ってところかな。
「ハリウッド超大作」としてはそれでいいけど、「ゴジラ」としてそれだけでいいのか?っていう問題っていうか。

つまり、ハリウッドでは「ゴジラ」を単なる巨大なトカゲ、あるいは古代の恐竜の進化した怪物、みたいな「モンスター」としてとらえるわけだ。
見た目が「COOL(カッコいい)」なモンスターキング、というわけだね。
その存在の意味をそれ以上掘り下げないし、ようするに人間の側はどうやって「ゴジラ」から逃げるか、というような展開にならざるを得ない。
または突如「別の怪獣」が現れて対決する、みたいなね。

実のところ、「東宝ゴジラ」でも、そういった内容の作品が多く作られた結果、「マンネリ」「怪獣プロレス」なんて言われて飽きられ、制作されなくなってしまうことが何度もあった。

例えば1955年、その前年に大ブームを巻き起こした「ゴジラ」第一作の余勢をかって世に出された第二作『ゴジラの逆襲』は、早くも敵怪獣「アンギラス」の出現とゴジラとの対決がメインストーリーになっていて、公開当時はヒットしたものの今日顧みられることのあまりない凡作との評価になっている。

続く第三作『キングコング対ゴジラ(1962)』が、「日米怪獣夢の対決」とのキャッチコピーで大ヒットしたことで、この「プロレス路線」は決定的となり、反核・反戦のイメージは完全に消えた。
以後、徐々にスケールダウンと陳腐化を重ねていくこととなる。


だが消滅しようとするたびに「ゴジラ」は、原点、大げさに言えば「存在論(ゴジラとは何者か?)」に立ち返ることで、「復活」してきたんだ。

1971年の『ゴジラ対ヘドラ』は、当時問題となっていた公害、大気や水質汚染を丸ごと怪獣化した「ヘドラ」を登場させ、核実験によって「ゴジラ」を生み、今また公害によって「ヘドラ」を生んだ人類文明への痛烈な批判を展開する異色の作品となった。

1984年の『ゴジラ(1984)』では、当時の「米ソ冷戦」によって引き起こされる核戦争の脅威を物語の主軸に置き、続く『ゴジラ対ビオランテ(1989)』では、遺伝子組み換えやDNA合成など、バイオテクノロジーの危険性をテーマとした。
ゴジラ自身もまた、核実験による遺伝子の暴走によって怪物化した被害者でもある、という位置づけだね。

また2001年、「平成ガメラ」の金子修介監督による『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』では、ゴジラとは先の大戦(太平洋戦争)で、旧帝国陸海軍の無謀な作戦によって散っていった英霊たちの怨念の集合体であり、ゆえにゴジラは自分(たち)を置き去りにしたまま21世紀を迎えた日本を襲い、東京を襲うのだ、というオカルト的(?)解釈がなされた。

ところがそうやって「復活」したシリーズは、シリーズであるがゆえにすぐまた、「マンネリ」化「怪獣プロレス」化する運命にあり、2004年の『ゴジラ ファイナルウォーズ』を最後に制作が止まってしまっていたわけだ。
そうして12年の月日が流れ、2016年、全く新しい「存在論」が登場した」

「あ、わかった。『シン・ゴジラ』だね」

「その通り。
この作品では、物語は第一作を含め完全にリセットされ、人類は21世紀の現代に至って初めて「ゴジラ」と遭遇する。
その正体は、核廃棄物のたまり場となった深海に生息していた古代生物が、突然変異によって怪獣化したもの、という解釈だ。

設定自体は「第一作」に類似しているんだが、本作は2011年3月の東日本大震災と、その影響で起こった福島原子力災害の、5年後の作品らしく、「自然災害とそれによって引き起こされる人為的災害」に立ち向かう人々、を主たるテーマとしている。

つまり、「ゴジラ」を描くというよりも、「ゴジラがいる世界」を描いた物語、というスタイルなんだ。
いわゆる「セカイ系」の物語にリンクする質感とでもいうか。
もっとわかりやすく言えば、この映画における「ゴジラ」を、「巨大地震」や「大津波」、「原子力事故」に置き換えたとしても、ちゃんと「物語」が成立するような構造になっていた。

その語り口も「その時」、官僚は、警察は、自衛隊は、マスコミは、在日米軍は、どう考えどう行動したか、という、一種の「ドキュメンタリー」形式になっている。

だから本作には明確な「主人公」はいない(もちろん形式的にはいるが)。
なにしろ役名のある人物だけでも100人に近く、セリフのある役となると300を超えるという。
そして登場人物は全て、その社会的地位というか「役割」として活躍する。
つまり、人格としての背景(どんな生活をし、家族構成はどうか、交友関係はどうか、など)は一切描かれないし、「怪獣映画」にありがちな「子供との交流」など全く出てこない。
徹頭徹尾「ゴジラvs日本(という国家組織)」が描かれ続ける。

この作品に対する批判のほとんどは、「登場人物に人間性が感じられない」という類いのものだったように思う。
かくいう僕も、このあまりにも「革新的」な内容に対して、公開当時にとある映画批評サイトに、こんな投稿をした。


「ゴジラ映画」として

子供のころ春休み・夏休みに親と、あるいは友達と「東宝チャンピオン祭り」に行くのはとても楽しみだった。
今思えば「駄作」という評価がされることが多い「70年代ゴジラ映画」だったが、それでも小学生にとって、テレビとは違う巨大スクリーンの中で暴れまわるゴジラや「東宝怪獣」には胸を躍らせたものだ。

時は流れて2016年。
あの「ゴジラ」がまた東宝制作でリメイクされるという。
期待して観た。結果は・・・

良かったよ。
よくできている。CGも大きく違和感がないレベルだし、ストーリーや台詞回しもいわれるほど変ではない。
少なくとも2014年の「ハリウッドゴジラ」よりはずっといいと思った。

だが、これは果たして「ゴジラ映画」なのだろうか。
この映画に出てくるのは、何か別の「不明生物」あるいは「動く大規模災害」であって、特にこれを「ゴジラ」と呼んだのは(劇中では)単なる偶然、あるいは(興業的には)集客のための方便でしかないのではないか。

それが証拠に、この映画を夏休みの「お楽しみ」として親と観に行った小学生はこれから何を感じるだろうか。

冗長、退屈、意味不明。
おそらく彼らは二度と「ゴジラ映画」など観ようとしなくなるのではないか。
その点がどうしても引っかかる。

よって評価は、
「パニック映画」・「ディザスタームービー」として85点。
「怪獣映画」として75点。
「ゴジラ映画」としては・・・採点不能。

一応、上二つの平均をとり「80点」とした。

大人としての自分はこの作品に満足している。
しかし、「遠い日の小学生」は、いまも首をかしげたままなのである。』」
                                                                


「へぇ、ずいぶんコキおろしてるねぇ。」

「そんなことないよ。
「特撮」パートは、「平成ガメラ」の樋口真嗣監督が、熟練の腕の冴えを見せていたし、かなりな部分に完成度の高いCG(コンピューターグラフィックス)が用いられて、それまでの東宝特撮とは全く違う、迫力あるシーンを表現していた。
しかもそれは、先に紹介した「ハリウッド版」の制作費の、恐らくは十数分の一のバジェット(予算)で制作されたものだったんだ。

ストーリーにしても、あれだけの作品世界にいちいち登場人物の「背景」まで入れていたら、映画は6時間越えの「超「超大作」」みたいになって、とても気軽に見られるようなものじゃなくなっていただろう。

それでなくてもこの作品は、情報量が途轍もなくて、ゆえに全員が「2倍速」のような早口で難解な専門用語を駆使しまくるために、「一度見ただけでは全貌がわからない」とまで言われたのだった。
これは総監督を務めた庵野秀明氏の個性というか「作家性」であって、本作は良くも悪くも「ゴジラ映画」というより「庵野映画」というようなものだと思う。

庵野氏の代表作新世紀エヴァンゲリオンはアニメ作品であり、本作とも基本コンセプトにおいて通底する部分が多いんだが、なるほどアニメなら人物が深く描かれることなくヴィジュアルの展開で物語りをテンポよく進めることができやすいわけだ。

その手法で作られた「ゴジラ映画」が本作というわけだが、これが「大震災」後の混乱から立ち上がろうとする日本社会の姿と絶妙にシンクロする結果となり、日本国内だけで80億円以上という大ヒットを記録し、「日本アカデミー賞」をはじめその年の映画賞を総なめにする勢いだった」

「へぇ、そりゃすごいや。怪獣映画がねぇ。大成功ってわけだね」

「ところが、問題はここからなんだ。
この作品、あまりの日本国内でのヒットに押される形で、全世界で次々と公開されたんだが、興行としてはどの地域でも残念、といった成績に終わっている。
日本国内とはまるで違う結果となったわけだ」

「そりゃまた極端な違いが出たもんだねぇ」

「その理由は、つまるところ日本以外は「311」を経験していなかった、ゆえに「大規模災害」のメタファー(比喩)として描かれる「ゴジラ」というものに共感しきれなかった、という事なんだと思う。

別な表現で言えば、もし仮に今(2023年)本作が封切られていたら、あれほどの大ヒットを記録したかどうか、という事だ。
やはり、あの圧倒的な「自然という大怪獣」に蹂躙され、文字通り日本という国の総力を結集して立ち向かわざるを得なかった時期の、あの体験の生々しさこそが、本作の大ヒットの秘密なのではないかと思う。

いわば本作は「シン」と「ゴジラ」の合成という事が言える。
「シン」とは庵野秀明的世界の表現、という事だ。
事実、本作の後、庵野氏は「シン・エヴァンゲリオン」「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」と、立て続けに「シン」世界を描いた作品を世に出しており、そのすべてがヒットを記録している。

つまり「シン・ゴジラ」は、庵野的世界を通して描いた「ゴジラ」の一つのヴァリエーションであり、第一作から連綿と続いてきた「ゴジラ世界」とは一部を共有するものの、決して「シリーズ第〇作」というような位置に収まるものではなかったのではないか、というのが僕の結論だ」


「はぁ、なるほどねぇ。
で、やっと最新作、山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』の話になるわけか。
観てきたんでしょ。感想は?」

「一言で言えば、これは紛れもなく「ゴジラ映画」だといえる作品だと思う」

「お、結構な高評価なの、それ」

「そうだね。
簡単に言えば、そこには「人間」がいるし、「背景」がある。
そして物語の中心に「ゴジラ」がいる。
更には訴えるべきメッセージを持っている、という意味で、「シン・ゴジラ」とは全く異なるタイプの作品といえるだろう。

ここでは、その描き方、人物やストーリーの動かし方、といった技術論を述べるつもりはない。
そうした完成度を云々する映画じゃない、という意味でも「ゴジラ映画」の系譜に連なるものだ、という事ができる」

「え、つまり完成度が低いわけ?」

「そういう意味じゃない。
こういえばわかってもらえるかな。
『シン・ゴジラ』は、明らかに大人が見ることを前提に作られている。小学生が見ることを想定していない。
それが悪いわけではない。現に大ヒットしたわけだから、それで問題ないわけだ。

どんなジャンルの作品であれ、良い映画を作るには、いかにお話の緊張感とテンポを維持するか、が重要だ。
粋な映画、おしゃれな映画ほど、そのために直接的でない比喩表現や、大胆な省略、あるいは時間設定の置き換え(結果から先に出して、後で説明する手法など)等々、映画的テクニックを駆使してハイセンスな映像を作り、おしまいまで見る者の緊張感とテンポを持続させようとする。これがいわゆる「映画ファンのための映画」だ。
「シン・ゴジラ」は、明らかにその文脈で作られていた。

しかし、いわゆる正統的な「ゴジラ映画(=怪獣映画)」は、建前として子供を含めあらゆる層の人に見てもらうために作られるべきものだと思う。
ゆえに芝居がくどかったり、説明的なセリフが多かったり、同じようなことを繰り返す場面が続いたりしがちになる。
そういったことを多少犠牲にしても、みんなが理解できる芝居で話をつなぎ、真の「主人公」である「ゴジラ」の存在感を高めるのが本来の「ゴジラ映画」のスタイルだという事ができる。
「緊張感とテンポを持続させ」る主体は、人間のドラマじゃなく「ゴジラ」そのものになってくるからだ。

一つの「座標」を挙げよう。
『ゴジラ』第一作が公開された1954年(昭和29年)にはもう一つ、日本映画の至宝ともいうべき大名作が生まれている。黒澤明監督の『七人の侍』だ。
その事実上の「主役」を務めたのが、昭和の名優・志村喬(たかし 1905-1982)。
彼は、黒澤監督の前作『生きる』での単独主演と本作によって、かのニューヨークタイムス紙上で「世界一の名優」と絶賛されるほど国際的評価の高い演技者だった。

興味深いことに志村は『ゴジラ』でも主要キャスト(ゴジラの保護・研究を主張する古生物学者・山根博士)を演じている。
だが、侍たちを集め、村人を統率し、村を襲う野武士と壮絶な闘いを繰り広げた戦国時代の闘将・勘兵衛とは打って変わって、山根博士は、人間の愚かな過ち(核実験)に対する大自然の怒りの化身ともいうべき「ゴジラ」を前に、なすすべなく逃げ惑う民衆の一人でしかない。
ただ学者として「ゴジラ」の持つ生命力の神秘に、他の人々より強く魅了されているに過ぎない弱弱しい存在だ。その演技も、あくまでも市井のいち研究者であり、一人娘(河内桃子)とその婚約者(宝田明)との、生活感のあるやり取りが芝居のほとんどを占めている。

構造的に言えば、『七人の侍』においての勘兵衛こそが「ゴジラ」に相当する役どころであるのに対して、山根博士たち人間は、『ゴジラ』という物語にリアリティと膨らみももたらす脇役、いやまさに「背景」に当たるわけだ。(もちろん背景だからどうでもいい、という意味では決してないよ)
「背景」というものはできるだけくっきりと、わかりやすく描かれる必要がある。「主役」に要求される、「存在感」を前面に出す芝居とは質的に違うものが求められるわけだ。
見たいのは、見せたいのはあくまでも「ゴジラ」であって「人間の芝居のうまさ」ではない。そこが一般の映画と「ゴジラ映画」の大きな違いだと僕は思う。

『七人の侍』における入神の名演技ともいうべき存在感と、『ゴジラ』での、主役を引き立てる「背景」としての佇まい。志村だからこそこの正反対ともいえる役割を、全く同時期に見事に演じ分けられているんだ。

彼を通してこの二つの作品を比較すれば、「ゴジラ映画」において人間サイドの芝居がどうあるべきか、は明らかだろう。

では、「主役」のゴジラは、どう描かれたか。
当然ながらゴジラは現実には存在しない架空の怪獣だ。
かつては「特撮の父」円谷英二特技監督による着ぐるみとミニチュアを用いた「特撮」によって、その存在感が表現されてきた。

だが山崎監督は、初監督作『ジュブナイル』から大ヒット作『ALWAYS三丁目の夕日』『永遠の0』『アルキメデスの大戦』など、一貫してVFX(CGデジタル映像による特殊効果。ミニチュアを用いる「特撮」とは似て非なるもの)による映像制作を中心とした作品作りを続けてきている。
2007年の『ALWAYS』の続編では、アヴァンタイトル(映画の冒頭)で「ゴジラ」を登場させているし、近年は西武園ゆうえんちで『ゴジラ・ザ・ライド』という、全方位フルスクリーン上映の体験型アトラクションも制作している。

本作は、こうして積み上げられてきたVFX技術に加え、山崎監督の「ゴジラ」愛、旧日本軍の軍艦、戦闘機に対する思い入れが、ついに一つに結晶した、というような凄まじい出来栄えを見せている。
これは一つの「革命的」な出来事だと思う。
映像的にはお世辞ぬきにハリウッドのレヴェルをある部分では凌駕しているとさえ思われる。
(『GODZILLA』のギャレス監督が、本作を絶賛・激賞していることからもそれがわかるだろう)

そうなると次は、「その世界」の設定、舞台装置が決定的に重要になってくる。
『シン・ゴジラ』が現代の東京を舞台としているのに対して、本作の舞台は、戦後間もない東京だ。
大空襲によって徹底的に焼き尽くされた東京が、やっとのこと立ち上がろうとし始める、まさにその時、「ゴジラ」は東京を襲う。
「0」を、更に「ー(マイナス)」にしようとするゴジラ。それが本作のタイトルの意味(の一つ)だといえる。

ゴジラの猛威に対して、終戦直後の日本人たちはあまりにも無力だ。
連合国軍によって完全に武装解除され、その連合国自体が構成国同士の対立によって軍事力の行使ができない、という悪夢のような状況。
そんなところからいかにして這い上がるのか。

これ以上のストーリー説明は「ネタばれ」になるのでここでは控えるが、本作のメッセージを端的に言えば「足し算」の論理が成り立たないのなら、「掛け算」をするしかない、という事だと思う。

「ゴジラ」が戦争(マイナス)の比喩ならば、人の心に今なお残る「戦争(マイナス)」をそこにぶつけて「+(プラス)」を切り開こうとする姿が、映画の後半に描かれる。
これは、「ゴジラ映画」で初めて語られる「メッセージ」だと思う。
「+(プラス)」とは、「生きる」ことだ。

「生きて、抗(あらが)え」

これが本作のキャッチコピーだ。同時にこの作品の「メッセージ」といえるだろう。

これがある限り、この作品はやはり「残る映画」になるのではないか、と思う」

「なんかよくわからないけど、えらい熱の入れようだね。
君がそんなに押すんなら、今度の休みに見に行ってみようかな」

「見て損はないと思うよ」



# by simplex-YN | 2023-11-14 00:37
2023年 11月 05日

【あれから38年】

おめでとう、阪神タイガース

日本一!


# by simplex-YN | 2023-11-05 21:48