2019年 02月 08日
ゆえあって仙台におりました。 朝、さすがに寒いが、見事な快晴。まさに日本晴れ。 時間があったので例によって仙台駅から観光循環バスに乗り、青葉通りを仙台城(青葉城)へ。約20分。260円。 が、乗客(ほぼ満員)過半数が中華圏からの方らしく、あんまり通じてなかったかも。 春節(旧正月)ということで、今年もドドッとお越しのようです。 そういえばこの後、行く先々で聞こえてくるのはチャイナ語メインだったような。(まあ、平日午前中に観光してる日本人てのも微妙ですが・・・ってオレだけど) 青葉城址に到着。 もともとこのお城には天守閣はなく、戦国・江戸初期の、「山城」と呼ばれるスタイルで、本丸自体は六十二万石の東北の雄「独眼竜」伊達政宗(1567-1636)公が開いた城にしては意外とこじんまりしています。 (後に二代・忠宗によって築かれた山のふもとの二の丸は現在、東北大学のキャンパスに、三の丸は仙台市博物館になっています。) 「関が原の戦い」(1600)当時、城とは「砦」であり、襲い来る敵を迎え撃つ強固な防御が必須条件でした。 したがって出来るだけ急峻な山の上に築き、天然の川などを防御ラインとして、「来るならこい、かかってこいやぁー!」という作りになっていました。 しかし、時は流れ、「勝利者」徳川家康を中心に新しい安定した時代が来ると、そもそもそんな戦(いくさ)をすることもなくなり、そうなってみると、山城は行き来するの大変だし、手狭だし、かといって山の上では切り開く平地も限られてしまいます。 「砦」としてではなく、「政庁」としての城の機能が重要視される時代になっていたのです。 けれども、徳川幕府は「一国一城令」を布き、城を作らせない政策を打ちだしています。 「え、何、おたくの城、拡張しちゃうの?それって、謀反?」 なんて、幕府に目をつけられたらエラいことです。 似たような理由で「改易(お取りつぶし)」や「転封(領地変え)」に追い込まれ、消された藩がいっぱいあった時代です。 そこでまず、家康ともゆかりの深い政宗の、隠居所という名目で「若林城」というのをもう一つ、すぐそばに築いています。 あくまで「隠居所」と称してはいましたが、縄張り(建築図面)を見れば明らかに「城」です。 こちらは平地に築かれ、堀と土塁に守られた「平城(ひらじろ)」と呼ばれる作りでした。 この城は政宗死去の後、直ちに取り壊され、その代わりという名目で「二の丸」「三の丸」を作ったのです。 頭いい。 (若林城の跡は、現在「仙台刑務所」になっています) というわけで青葉城址。 ここは政宗公の騎馬像が有名ですよね。 残念なことに、戦災によって城の遺構はほぼ完全に焼失し、現在みられる城らしい構えは、ほぼ戦後の復元といってよい状態です。 旧本丸跡に護国神社があります。 さっそくお参り。 その片隅に、土井晩翠(1871-1952)の銅像が。 晩翠は仙台出身の英文学者・詩人。代表作品は何といっても瀧廉太郎(1879-1903)作曲の『荒城の月』でしょう。 実はこの曲、「詞先」だったようで、東京音楽学校(今の藝大)から中学(今の高校)用の唱歌を依頼され、まず晩翠が詩を書き、それに当時まだ学生だった廉太郎が曲を付けた、ということです。1901年発表。 (このわずか2年後に廉太郎は肺結核で死去。二人はその死の直前、ロンドンでただ一度会ったきりとなりました) 曲中の「荒城」とは、江戸時代約270年を、一度も戦闘に使われぬままに明治の世に廃城とされ、陸軍第二師団本部として使われていた青葉城を指しているのでしょう。 それだけではなく、まるで、廉太郎の早すぎる死、その後の戦災によってすべてが消失する、悲しい運命をも予言するかのようなその詩の奥深さを、今我々は味わうことになります。 銅像は、一日の決められた時間に自動的に「荒城の月」を演奏する仕掛けになっているそうです。 もうひとつ、今回目についたのがひときわ巨大な石柱碑でした。 これは「昭忠碑」といい、日清・日露の戦役で命を落とした第二師団の将兵たちを鎮魂するために設けられたものだそうです。 戦時中の金属供出をも逃れ、明治期のブロンズ彫刻の傑作として名高い作品です。 過去何度も青葉城を訪れて目にしていますが、ちょっと何かヘン。 う、確かこの碑のてっぺんには、今まさに天に飛びたたんとする黄金の鵄(とび)のブロンズ像があったはず? あれ、地面に降りている。 ????? 実は、あの「311」のとき、鵄を固定していた軸が折れ、地上十数メートルから地面にたたきつけられて砕けているのが発見されたそうです。(石碑自体にも損傷があったようです) 直ちに修復・復元が検討されましたが、何しろ当時は市街地自体が壊滅的打撃を受けた地区もあり、そちらの復旧に注力せざるを得ず、約五年間事実上手を出せずに居たようです。 ようやく復興も一段落し、文化財修復事業の一環として平成28年(2016)に着手。その年の内に完了しました。 しかし、再び震災が襲って落下する危険性を考慮し、石碑の上ではなく前に安置されることになったということです。 「311」から約8年、今や北の都としての繁栄を完全に取り戻したかに見える仙台の、随一ともいえるシンボルに残る、「あの日の記憶」です。 いま、「シンボル」と書きましたが、仙台のシンボルとは何でしょう。 僕は青葉城、というより、この城跡から一望できる仙台の街そのものではないか、と思っています。 広瀬川、仙台平野、一面に広がる街の賑わい。そのはるか向こう、遠く太平洋の果て、メキシコ、スペイン、ヨーロッパにまで思いをはせ、支倉常長(1571-1622)らを使節として国交を開こうとさえした政宗の雄大にして周到な政治姿勢が、この街のそこここに今も息づいているようです。 ふとそんな思いにとらわれていると・・・ トントン、肩をたたく人が。 振り向けば何と!三日月の前立て兜、隻眼、甲冑武者姿の政宗公! 「どうじゃな、わが仙台の賑わいぶりは?」 「はっ、恐れ入ります。 震災からもすっかり復興して、以前より更に力強く繁栄しているようですね」 「左様。 地震と津波、火災で難儀をしたもの、尊き命を落とした者たち、まことに気の毒であった。 だが、災難は此度ばかりではない。 我等は北の民、この地に根を張り、既に400余年。 その間、多くの災害にも見舞われてきた。戦さもあった。 けれどもそのたび、力強く蘇って今日にまで繋いできたのじゃ。 今、わが城は既に無く、片々たる石垣を残すのみ。 それが何であろう。 見られよ。 眼下の街の賑わい、人々の暮らし、その平穏と安寧を謳歌する姿。 それこそが、我が誇るべき「城」じゃ!」 「ははっ。ありがたきお言葉」 頭を上げると、そこにはただ青い天が広がっているだけでした。 ≪おまけ≫ 帰りは、2015年に開通したばかりの「地下鉄東西線」に乗ってみました。 「大町西公園」から「仙台」約10分。200円。 何だ、バスよりずっと便利じゃん、といわれそうですが、地下鉄行きかえりじゃあ、途中の街の様子が見られないし、城跡から駅まで約2km、徒歩で15分以上かかるんです。 バスだと城の入り口まで来てくれますからね。 でもまぁ、今日はこんなにいい天気だし、帰りは歩くか、というわけで山を降り、外堀に沿って歩いていると、街路樹の植え込みでなにやら写真を撮ってる人が。 「こんにちは。それは何の木でしょうか?」 「これ?これは「ろうばい」だよ」 「ろうばい」???知らないなぁ。 「今年もやっと花が開いたんだよ。それじゃ」
【ロウバイ】 「蝋梅」「唐梅」とも。中国原産の落葉樹。梅ではなくバラ目バラ科で香りが強い。早生の物は12月ごろ、晩生のもので2月ごろの開花。
「やっと花が開いたんだよ」
by simplex-YN
| 2019-02-08 16:30
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