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2018年 04月 23日

【桜の逆襲】


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4月22日(日)早朝の、秋田市です。
桜、ほぼ満開でした。

いやぁー、いい時に来たなぁ。ひと春に二度も見られるなんて。
こいつぁ春から、あ、縁起がいいわぇ~!


秋田駅から徒歩数分、大名・佐竹氏のお城、久保田城址にある、「千秋(せんしゅう)公園」です。
最高気温この日なんと17度!(東京は28度だったそうです。ご苦労様)
少し肌寒いくらいでしたが、地元の人に言わせると、「今日は久々に暖かい」んだそうです。
同じ東北でも、仙台は東京とほとんど変わらない暑さだったんですが・・・


ま、とにかく、朝の爽やかな空気を胸いっぱいに吸いこみながら、園内を散策してみます。

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久保田城は慶長9年(1604)、佐竹家当主・佐竹義宣(1570-1633)によって築城されています。
この城は分類上「平山城」と呼ばれるタイプに属しますが、小高い丘をそのままに生かし、一部に堀を設け、自然の川(雄物川)を守りに取り入れた、一見お城とは思えないようななだらかな形状をしています。
「城」とはいっても、石垣などはあまり築かれておらず、天守閣も元から作られなかったようです。

関ヶ原の戦いで中立を守った佐竹氏は、怒った徳川家康によって平安時代以来ずっと領地としていた常陸の国(茨城県)を追われ、出羽の国の北半分(秋田県)に転封(領地換え)を命じられました。

50万石を超える大大名(しかも江戸に近い)が、コメも獲れるかどうかわからない北のはずれ(当時)の、推定20万石の地にいきなり飛ばされたのです。収入約60%カット、です。

社内の派閥抗争に巻き込まれ、新社長から罰ゲームの様に「ハイ君、明日から異動ね!」と急に辞令が出て、とるものもとりあえず一族郎党ひきつれて茨城支店から、新設の秋田支店に移住したようなものですから、石垣造ってる暇もなかったのかもしれませんね。
もっとも、城の外郭(総構え)はものすごく広大で、現在ここに県庁など官公庁街やオフィス街が形成されています。

その後、この地を掌握した佐竹家は領民とともにコメの増産および各種特産物(ハタハタ・しょっつる・比内地鶏・いぶりがっこ・きりたんぽ等々)の開発にも努め、江戸中期には実質石高45万石を数えるまでになりました。

いまサラッと「領民とともに」と書きましたが、これは何もシャレやオベンチャラじゃあありません。
なぜそれがわかるか、というと、いま現在秋田県知事を務めておられるのは何と、佐竹家の一族である佐竹敬久氏(三選)であることが何よりの証拠です。

明治維新後、多くの大名は領地を離れ、東京(江戸)の上屋敷などに移住し、爵位を受けて貴族となったのですが、旧領地との関係は意外にあっさりしたものだったといいます。

江戸時代の大名というのはいわば「雇われ社長」みたいなもので、領地領民という「海」に浮かぶ、頼りない船みたいなものだったのです。
まして佐竹氏のように、懲罰的に縁もゆかりもない土地に飛ばされた大名は、統治に失敗して一揆や強訴が頻発し、国力を衰退させることが珍しくありませんでした。

しかし秋田藩(久保田藩)は、今なおその末裔が市民・県民に慕われ支持される、というまことに稀有な存在であったのです。

そうしたせいか、お城自体も物々しさがあまりなく、なんだか「佐竹さんちのでっかいお屋敷」みたいな感じがします。

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公園内はご覧のとおり、もう満開の桜でいっぱいです。
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珍しいことに、梅と桜が同時に咲いていたりしています。
長い冬を共に乗り越え、「せーの」で一気に咲いたんでしょうね。

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城の名残りを留めるものは、いくつかの城門と櫓(ともに復元)くらいしかなく、かつて広大な御殿が築かれていた本丸・二の丸跡は、よく整備された芝の庭園となり、そこここに桜が植えられています。
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この日はまさに「桜祭り」のクライマックスに当たるため、園内にはたくさんの屋台が出て、早くも場所取りの人たちが敷物を用意していました。

旧・本丸に当たる、公園の最も高い場所には八幡神社と稲荷社が設けられ、いろいろな記念碑と共に秋田佐竹藩最後の藩主である、一二代・佐竹義堯(よしたか)公の立派な銅像が立っています。
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余談ですが、いまやお城といえば桜、というイメージが一般的ですね。
でもこれ、少なくとも明治になる前にはありえない組合せだったんです。
何故かというと、昔は「桜」というのは実は「死者を弔う花」だったんです。
ほら、前に書いた「靖国神社」とかね。

城というのはイザというとき立て籠もる「要塞」であり、また軍議を練る「作戦司令部」でもあったわけで、そういう場に「死者」はふさわしくないわけです。
なので江戸時代までは桜の名所といえば大きなお寺の境内などが一般的だったのです。
「上野・寛永寺」などがその例でしょう。


では、その当時はどんな木を植えていたかというと、樫や椎など「どんぐり」が成るもの、あるいはイチョウやクリの木が多かったようです。
これらは「実」を食べられますから非常食になるわけです。また松の木も、マツボックリや皮を剥いて食べられたといいます。(食べたくないですが)

あるいは花の咲く木でも、桃や梅が多かったようです。
これは実が獲れる、ということ以外に、中国の「神仙思想」から、桃は不老長寿や魔除けに用いられたのと、梅は他の花に先駆けて咲くことから「先駆け=一番槍」というような縁起の良い木とされていたようです。

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で「桜」はどうか、というと、中国思想では「桜」はあんまりパッとしないんですね。
中国では桜は「花神」、すなわち「花咲か爺」のイメージらしいのです。
中国画の画題としても梅の木には美人が描かれ、それと対になる形で桜には仙人のような爺さんがしばしば描かれます。
ヒドいもんですね。

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久保田城は明治13年(1880)の大火でそのほとんどの建物を焼失し、その後佐竹家から本丸・二の丸跡を市が借り受けて「千秋公園」としました。(現在は市の所有になっています)
恐らく公園になった時点でこの桜たちは植えられたものなのでしょう。


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ま、そういうことはひとまず置いといてこの見事な桜、どーです?
いやー、朝から一杯飲みたくなっちゃいますよねー。


・・・って、いけね、これから仕事だった!


早く戻らんと「ナマハゲ」が、あ、いやマネが・・・


それじゃ、いってきまーす!



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# by simplex-YN | 2018-04-23 23:24
2018年 04月 16日

【春の味】

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これ、何だかわかりますか?

何と、「桜の葉っぱの天ぷら」なんです。食べられるんだ。
そういえば、「桜餅」はこの葉っぱ(塩漬け)で包んであるもんなぁ。
薄めのコロモで180℃の油でからりと揚げて、塩でいただきます。
鮮度が命!
ものの3分もすると、しなしなで食感がなくなっちゃいます。
う~ん、噛むとほんのり「桜餅」の風味が口中に広がります。

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続いては、シメジとカラスノエンドウのかき揚げ。
カラスノエンドウは、春には紫色の可愛い花をつける、皆さんもきっと目にしているはずのマメ科の植物、というよりその辺に生えてる雑草です。
良く似た仲間にスズメノエンドウというのもあり、こちらは花が白紫色なのが特徴です。


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散歩途中の土手で、それこそ無尽蔵に生えてるのを、猫や犬のアレがかかってなさそうな若いところを摘んで帰ってきました。
まずマメをざるに取り、虫がついてないか調べた後、スジを取って水洗いします。


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シメジ(これは買いました)と合わせ、厚めのコロモで揚げて、こちらは天つゆをダボダボに付けていただきます。

う~ん、これもイケる!温かいご飯にのせて「ヘルシーかき揚げ丼」にしてもいいでしょう。


まあ、2つとも、ビックリするほどうまいのかというと、まあそういうことではありません。なにしろ「0円」ですから。
でも何か僕らはふだん、「ビックリするほどうまい」ものを求めすぎて、すぐそばにある「季節の味」を見落としているのじゃないでしょうか。

これは、間違いなく「春の味」ですよね。

せっかく見事な「四季」のある国に生まれたのですから、一年を噛みしめて生きていく、これもまたとても贅沢な料理だと思います。





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# by simplex-YN | 2018-04-16 16:23
2018年 03月 28日

【1/52】


またこの一週間がめぐってきました。

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もはや満開。

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何度か書いたと思うけど、この木の凄いのは花が咲く直前までだーれも見向きもしないのに、咲いたとたんに圧倒的な存在感を見せるところ。

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この一週間のために、一年の残り51週をじっと静かに立ち尽くしている、そういう木なんです。

それにしても、花開いた時の、この遠慮のなさはどうでしょう。

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やがてステージは終わり、そしてまた、次の「一週間」に向けて長い準備を始めます。

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耳を澄ませてみましょう。
咲き誇り、やがて散ってゆく花びらたちがこんな風にささやいているのが聞こえてくるかもしれません。


         「終わりは、はじまり」


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# by simplex-YN | 2018-03-28 00:57
2018年 03月 11日

【止まった時計】


7年が経ちました。

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何がどれだけ変わったでしょう?

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あの日を忘れることはできません。


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けれど、あの日から時は遠ざかってゆかざるを得ません。

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あの止まったままの時計に、もう一度ネジを巻く日は来るでしょうか。

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その日まで、歩き続けることしか、僕たちには残されていません。

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忘れられない、けれど立ち止まってはいられない。


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7年。

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この7年を、歩きたくて歩くことができなかった人々の分も。

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# by simplex-YN | 2018-03-11 23:10
2018年 02月 17日

【雪中行軍 その3】


さて、いよいよこれからが本番だよお立合い。
今回の主たる目的地は、これから紹介する「八甲田山雪中行軍遭難資料館」だったのであります。

実は僕は、長い間大きな勘違いをしていました。
「八甲田山」という名前が付いているので、てっきり山の奥深くにでもあるものと思い込み、さすがに仕事帰りにちょっと立ち寄るというわけにはいかないだろうな・・・とあきらめていたのですが、今回よくよく調べてみたら、何と青森市の中心地から市バスで行けることがわかり、それならばと朝食後、ホテルを出て向かったのでありました。

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「八甲田山雪中行軍遭難資料館」
長い名前ですが、このブログをご愛読の方なら、ご記憶かと思います。
(2017年2月17日【コタツより愛をこめて】を参照)

明治35年(1902)、来るべき日露戦争(1904-05)に備え、青森・秋田・岩手を根拠地とする陸軍第8師団(師団長・立見尚文中将)では、ロシア艦隊の襲来に備え、冬期の弘前、青森、八戸の各連隊間の連絡路の確保と、予定戦場である満州地域での軍事行動のための雪中訓練の必要に迫られていた。

青森第5連隊においては総員210名という中隊編成で、青森-八戸間の雪中行軍が計画され、1月23日屯営を出発。
幸畑-田茂木野-大峠・小峠を越え、第一泊目の目的地である田代温泉へと行軍を続けた。
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ところが折り悪く、この日は日本列島北部に大暴風雪を伴う巨大な低気圧が接近し、北海道・旭川では現在も更新されることのない日本最低気温「-41度」を記録したうえに、日本海、太平洋、青森湾と、3方向からの風が八甲田上空で複雑にぶつかり合う最悪の気象状況となったため、行軍の途中猛烈な地吹雪に遭遇し、行軍隊は馬立場と呼ばれる平原で方向を見失い、隊列は乱れ、やむなく雪の中での露営(野宿)を余儀なくされ、以後散りじりになりながら寒さ(体感温度は-50~60度ともいわれる)と飢え(携行した食料は凍り付いて食べられなかった)、疲労、凍傷、遂には低体温症によって次々と倒れ、露営と彷徨を繰り返しながら結果的に210名中199名死亡、残る11名のほとんども凍傷のため両手足を切断、という人類史上最大最悪の山岳事故となった。
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この事故を題材に作家・新田次郎が小説「八甲田山死の彷徨」を著し、これを原作として映画「八甲田山」(1977)が制作されたのです。

「資料館」では、実際の事故の模様や当時の装備などについての詳しい展示があるということで、以前から気になっていた場所でした。
それがまさか、市バスで行ける距離だったとは。
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「幸畑墓苑」の停留所は道路わきに積み上げられた雪に埋まってしまっていて、良く見えないほどです。
それでも道路は綺麗に除雪が行き届いており、バス自体はほぼ定時運行されていました。
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ここは、「幸畑陸軍墓地」といって、雪中行軍の指揮者であった「神成(かんなり)文吉」大尉、また大隊本部付として参加した「山口鋠(しん)」少佐以下、雪中行軍の犠牲となった199名、及び生き残った11名の兵・下士官・将校たちを慰霊するために設けられた場所なのです。
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積雪のために何だかわからなくなっていますが、夏場はこの通りです。
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ここで、旧日本陸軍の編成について大まかに説明しますと、まず最も小さな単位として「小隊」というのがあります。これが約50名だと思ってください。(小隊は平時には編成されません)
その上が「中隊」で、4個小隊からなり(約200名)、「大隊」は4個中隊(約800名)、「連隊」は3個大隊(約2、400名)からなります。その上は「旅団」といい、3個連隊(約7、500名)から成っています。
そして通常、2個旅団(約15、000名)を「師団」といい、これが平時の最大単位とされています。
つまり、遭難したのは「第8師団、第4旅団、第5連隊、山口大隊、神成中隊」ということになります。

神成大尉がすべての指揮を執るはずだったのですが、「大隊本部付」という名目で上官である山口大隊長とその部下たちが随行することになったため、現場の命令系統は乱れ、吹雪の中での進路決定の妨げになったのでは、と推測されています。
(ただし、これがどの程度この事故に影響したのか、は、関係者がほとんど遭難死しているためはっきりとしたことはわからないようです)

小説や映画では、このあたりの人間関係が大胆にクローズアップされ、平民出身のノンキャリアであった大尉が、キャリア組の上司の場当たり的な命令変更に振り回されて中隊全体の遭難-全滅に至ってしまう、という「組織論」的な解釈がされていますが、これは全くの創作に過ぎず、映画の公開の際には、一部遺族から抗議の声が上がったそうです。
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ともかく、雪の中で死んでいった兵隊さんたちのご冥福を、まずはお祈りしました。


予想はしていましたが、この積雪の時期にここまで来るような物好きは、僕一人だったようで、約1時間の滞在中、他にはだーれも来ませんでした。

まず、玄関ロビーには、約3mの巨大な銅像がお出迎えです。
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これは、次々と倒れていく兵士たちを何とか救うため、神成大尉が命令して「先遣隊」として派遣した後藤房之助伍長が、大峠・小峠の雪の中で仁王立ちしているのを第五連隊の捜索隊が発見した時の姿をうつした、とされる像(のレプリカ)です。

後藤伍長はこのときの凍傷によって四肢切断を余儀なくされましたが、仲間のために命がけで単身吹雪の中をさまよい、田茂木野まであと数キロという地点まで達していたのだそうです。
軍ではその犠牲的精神を讃え、全国から寄付金が集まり、遭難地点の馬立場に銅像が建立されています。
作者は、何とあの靖国神社の「大村益次郎像」を作った大熊氏廣であり、このことを見ても、雪中行軍事故が当時全国的な注目の的であったことが伺われます。
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館内には、行軍隊の装備が展示されています。
何と、最初は行軍の最後尾に大型のソリに乗せた炭、米、缶詰、漬物、餅、酒、そして煮炊き用の鉄の大釜までを引っ張ってゆこうとしたようですが、雪の深い山の急斜面にさしかかるとたちまち身動きが取れなくなって、遅れたソリ隊を待つために雪の中で数時間も「大休止」をしたりしていたようです。

そして、この足回り。
ワラですよ藁。
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普通の皮靴(軍靴)の上からカバーのようにはかせたらしいのですが、さすがにこれでは水が浸みてきて、全員があっという間に凍傷になってしまったでしょう。
一応、足先には油紙を巻き、唐辛子を付けていたらしいですが、とてもそんなことでは間に合わなかったようです。
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そんな中ただ一人、ゴム長靴をはいていたのが、大隊本部付の倉石大尉でした。
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実は彼は行軍の数週間前、出張で東京に行っており、その時偶然にも当時最新のゴム長靴を手に入れていたのでした。
おかげで彼だけは手足の切断を免れ、五体満足で生還することができたのでした。
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で、雪中行軍のリーダーである神成大尉は後藤伍長に先遣命令を出した後、死亡。
大隊長・山口少佐は一時仮死状態になりながら捜索隊によって救出、蘇生したのですが、翌日謎の死を遂げています。一説には責任を感じてのピストル自殺とも言われているのですが、四肢を凍傷で失ったはずの彼がどうやって引き金を引けたのか、という疑問が残されたままです。
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そして、偶然にも全く同時期、弘前31連隊でも逆ルートをとり、雪中行軍訓練が行われていました。
(青森5連隊とはまったく事前連絡が取れておらず、したがって小説・映画が描いたような2つの連隊の競争のような事実はなく、おのおの完全に独立した計画だったようです)
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こちらは小隊長・福島泰蔵大尉以下冬山の経験者で固めた総員37名に新聞記者が1名随行、という小隊編成で、装備やルートの選定にも時間をかけ、10泊以上を想定して民泊を利用し、かつ地元の案内人を雇い、もっとも効率的な行軍を目指すなど、主に大陸での作戦行動を想定した実戦的なものだったようです。
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青森5連隊の場合は、地元・青森の隊員はおらず、雪の少ない宮城や岩手の平地出身者がほとんどで、当地の気象状況をまるで知らなかったばかりか、地図や磁石(すぐ凍りついて使い物にならなかった)に頼り切って案内人も雇わず、しかも何と第一目的地であった田代温泉まで過去に行ったことのある者すら皆無であったといいます。
中には雪山の怖さを甘く見て、せいぜい2・3泊の温泉旅行のつもりで専用の石鹸まで用意して参加した兵さえいたそうです。

結果として31連隊のほうは当初の計画通り十和田湖周辺から三本木、田代、田茂木野、青森と無事に踏破し、弘前に帰っています。

この事故から我々が学ぶべきことは、
①大勢で雪の冬山にはなるべくいかない。
②リーダーは一人に決め、全員がリーダーの言うことを聞く。
③ワラぐつじゃなくゴム長靴をはく。

といったところでしょうか。

一通り見終えて帰ろうと思ったところ、
        
    オッ
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これは、「ドキュメント八甲田山」じゃないか。
日本・イタリアの合作映画で、真実の雪中行軍遭難事故を描いた2014年の作品。
これ、アマゾンだと5,000円くらいして、高くてちょっと手が出なかったが、何ッ、24%オフの3,780円だって?
やったーっ!
やっぱり、来てよかったぁ。ゲットだぜ!

と、いうわけで「資料館」を後に、最終目的地へ。

最終目的地、それは・・・
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青森県立青森高校。かの「シング・ライク・トーキング」の佐藤竹善君の母校。

・・・ではなくて、ここが「青森5連隊」の跡地なのです。
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かつての連隊正門が、現在は高校の通用門として残されて・・・

あらら、雪で何だかわからん。
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夏はこんな感じ。
(おーい、竹善。君の母校に行ってきたぞー!)
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そのまま徒歩で青い森鉄道「筒井」駅に移動。
ここから一駅で「青森」です。(にしては、運賃が高っ!)
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というわけで、青森に到着。
その後「八甲田丸」に乗船、となるわけです。
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ここまでお読みくださった皆様。
長々とありがとうございました。
ことわっときますけど、地方の仕事のたんびにこんなことやってるわけじゃあないですよ。
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青森は僕にとって、歴史も思い出も出会いも、いーっぱい詰まった、大切な場所なんです。


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# by simplex-YN | 2018-02-17 23:23