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2017年 06月 13日

【横浜は今日も晴れだった。わ・わ・わ・わぁー・・・って、あれ?】

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みなとみらい線「日本大通り」駅下車すぐの「横浜開港記念館」です。
だいぶ前、ピアニストの光田健一さんとここで「二人ライブ」をやったことがあります。
すごーく趣きのあるホールだったなぁ。
「ジャックの塔」と呼ばれているそうです。

設計は、おなじみ辰野金・・・ではなく、「辰野式フリークラシック」という、金ちゃん流の意匠を福田重義、山田七五郎という若手(金ちゃんから見て)の建築士が行いました。


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その斜め向かいには「神奈川県庁」の本庁舎がそびえ立っていますが、その昔、開港直後の時代にはここに「神奈川運上所」がありました。こんにちでいう税関ですね。まだ江戸時代の話です。
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当時、「横浜」って地名自体がまだまだ「どマイナー」だったので、メジャーな「神奈川」運上所という名前だったんですね。
この場所を境にして、東側(上図左側)に外国人居留地がつくられたそうです。
始めは日本式の陣屋であったものが1866年10月12日に関内大火(豚屋火事)で焼失し、石造りのモダンな2階建てとなり、名称も「横浜」役所と変わり、明治維新を経て1872年(明治5年)に「横浜税関」となります。
後ここには「神奈川県庁」がおかれ、それが関東大震災(1923年・大正12年)で倒壊したため、5年後に新庁舎として建造されました。
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当時流行の「帝冠様式」と呼ばれる、完全左右対称(シンメトリー)の、ややイカメシイ感じの建物ですが、その堂々としたたたずまいから「キングの塔」とも呼ばれています。
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そしてそして、移転した「横浜税関」はやはり関東大震災で焼失し、昭和9年(1934年)に現在の建物となりました。
その丸みを帯びた優雅な姿から、「クイーンの塔」と呼ばれています。

実はここ、税関で押収した密輸拳銃や麻薬、ワシントン条約で輸出入禁止となっている希少動物のはく製なんかのサンプルを展示していたり、高級ブランド品のニセモノ(いわゆるパチモン)の展示があって一度行きたかったんですが、今回は涙目で断念。

で、神奈川県庁の向かいの「横浜開港資料館」に行ってきました。
この場所こそは、かのマシュー・ガルブレイス・ペリー提督が、1854年に上陸して「日米和親条約(神奈川条約)」を徳川幕府と結んだ場所なのです。
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この建物は、もとイギリス領事館として使われていました。(1931年・昭和6年建造)
ここでは幕末から昭和初期までの、横浜に関する貴重な歴史資料を見る事ができます。
入館料おとな200円。安っ!

しかも、実はここの本当の「歴史遺物」は「タダ」で見る事ができるのです!(大きな声じゃあいえませんが)
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それは、この珍しい「コリント様式」の柱、ではなく、

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日本初といわれる西洋式水道の「獅子頭共用栓」でもなくて、中庭に生えるただ1本の木なのです。
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何ということでしょう!この木は、あの有名な「ペリー上陸の図」に描かれている木、そのものなのであります。
「玉楠の木」と呼ばれています。


ほれ、この絵の

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ここっすよ!この木。

残念ながら関東大震災でその幹は焼失したのですが、根は健在で、のちに新しい幹が生えてきて、現在に至るそうです。
その後の戦災にも耐え(これはイギリス領事館内だったので無事でした)て、まさしく開港から今日までの横浜の160年余りを見つめ続ける「生き証人」なのです。
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で、赤レンガ倉庫なんですが、まこれはこの前やったから軽く流すと、う~ん、これホントに「倉庫」だったんかい、唸りたくなるほど、細部の意匠に至るまで妥協なく作られていて、まさか妻木大先生、100年後にショッピングモールになるのを知ってて作ったんじゃあ、と疑うほどの出来栄え。

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だってさ、何でただの倉庫にこんなお洒落な「テラス」がいるわけ?しかもこの部分だけ「鉄筋コンクリート造」なんですよ!

この日は梅雨入りしたとは思えない爽やかな快晴で、3階テラスからの眺めなんかもうサイコーでしたよ。

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でも、僕は見つけてしまった。

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外壁のそこここに、修復し切れない機銃掃射の生々しい傷跡を。

大戦末期、ここは軍に接収され、軍需物資の集積場として使われたのです。
また、戦後は占領軍の補給基地となり、朝鮮戦争(1950年)の頃にはここから大量の武器弾薬が送り出されたのでした。
「赤レンガ倉庫」もまた、激動の横浜を生き抜いた「証人」だったのです。


最後に。

ここで見てきた建物は、明治・大正・昭和の時代にわたり、それぞれの時代を代表する建築家と、名もなき多くの技術者・労働者によって築かれた「歴史のモニュメント」であると同時に、200年余りの鎖国状態から一気にたたき起こされ、気づけば絶望的なまでに開いていた西欧列強との「差」を、何とかして埋めようと奮戦した「闘いの記録」でもあるのです。

開国したばかりの日本、大震災に打ちのめされた日本、戦災で何もかも失った日本にとって、新しくこれらの建物をつくることは、恐らく今日でいえば「東京ドーム」や「スカイツリー」を作ることよりもはるかに困難だったことでしょう。
その資金の多くは公債すなわち「未来からの借金」です。
将来これらの建物が、必ずや大きく繁栄する横浜のシンボルとなるに違いない。
だからこそ彼らは、大げさに言えば「飲まず食わず」でも、これらを作る事ができたのです。

現実に100年後のいま、これらの建物はもはや他に替えるもののない、貴重な横浜の、いや日本の、人類の財産になっているのです。

我々は、日々の暮らしのなかで、ついつい「ムダ」をきらい「コスパ(コストパフォーマンス)」を意識することがスマートで正しい道だと考えがちです。

しかしその結果、本来使うべきところまで削ることが「スマートで正しい」ことだ、と考えてしまっているのではないでしょうか。
もしも100年前の人々が「コスパ」だけを考えて生きていたら、今の横浜もずいぶん違った景色だったのではないでしょうか。

前にも書きましたが、「赤レンガ倉庫」がまだ廃墟どうぜんだったころ、「コスパ」だけで建てられたビルは今では何の変哲もない「中古ビル」でしかありません。
けれど、妻木頼黄が、その才能のすべてを注いで設計した「赤レンガ倉庫」は、いまでは横浜の「新しいシンボル」として不死鳥のようによみがえっているのです。


約50年ぶりの「東京オリンピック」を目の前にして、「赤レンガ倉庫」をはじめ「横浜のレジェンド」たちは今、とても需要なメッセージを送ってくれている気がします。




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# by simplex-YN | 2017-06-13 01:56
2017年 06月 08日

【横浜はなぜ・・・その3】

【その2】で終わりだと思ってました?

実はワタクシ自身もそう思っていたのですが、キリよく【その3】までいっとこー、というわけで、今回は「モーションブルーはなぜ【ブルー】なのか?」問題について考えてみました。


といってもこれ、ネットでチャチャッと調べりゃすぐわかるんですが、この【ブルー】というのは「blue note」の【ブルー】なんですね。

「blue note」というのは,もともとJAZZやBluesの用語で、メジャースケール(長音階)の3・5・7番目の音をフラットさせたスケール(音階)のことを言います。
JAZZなどの黒人音楽ではこのスケールがよく使われるので、いわばJAZZの象徴のような意味合いがあり、伝統あるJAZZレコードレーベルにも「ブルーノートレコード」というのが1930年代からあります。



1981年にニューヨーク・マンハッタンのグリニッジビレッジにライブハウス「BLUE NOTE」がオープンしました。(ワタクシ、聞きに行ったことあります)

その後1988年には、日本の東京・青山にも「BLUE NOTE tokyo」が、2002年には名古屋・栄に「BLUE NOTE nagoya」ができました。
(現在、イタリア・ミラノにも出店しているそうです)

そして名古屋と同じ2002年に、「赤レンガ倉庫」がリニューアルオープンしたのに合わせ、「MOTION BLUE yokohama」がグループ店としてオープンしています。


お店のホームページhttp://www.motionblue.co.jp/によると、
アクセスは「みなとみらい線」の馬車道駅、もしくは日本大通り駅からが最も近く、徒歩6分だそうです。
またJR桜木町駅・関内駅からも徒歩で15分程度なので、「街ブラ」をしながらゆっくりと行くのも楽しいでしょう。

付近には有名な「象の鼻パーク」や「大さん橋」、また「マリンタワー」「氷川丸」「ニューグランドホテル」「カップヌードルミュージアム」など、横浜を代表する観光地がゴロゴロとあります。
中華街もすぐ近くですし、とても魅力的なロケーションだと思います。
(オレなんかほんというと、ライブよりそっち行きたいくらい・・・ってそれ言っちゃダメ!)


6月10日(土)はライブとともに、横浜を丸ごと楽しむ1日にしていただきたいと思っています。


以上、【ステマ】じゃなく、完全な【マ】でした。


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# by simplex-YN | 2017-06-08 20:52
2017年 06月 03日

【横浜はなぜ・・・その2】

と、その前に【いきなりの訂正】です。
本文中「1911年(明治42年)」とありますのは、(明治44年)の誤りでした。
複数の読者の方のご指摘により気が付きました。
お詫びしてここに訂正しておきます。
(自戒のため本文はそのままにしておきますので、こちらで脳内補正してください)

それにしても・・・アップした早々次の日に

「オマエはまちがってるぞ!」
「ひっかかったね(笑)」
「しっかり書かんかい!」

等々、「タコ殴り」のように、いろいろな「こころ暖まるコメント」ありがとうございました。
しっかり書きます。

【以下本文】



ハーィ!
ミナサーン、コニチワー。

やりだすと、けっこう頑張る、「スロースターター」中西です。
今回のテーマはズバリ、
「赤レンガは、なぜ「赤」レンガなのか?」
です。

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これが「横浜赤レンガ倉庫」です。
うーこうして見ると、なんか19世紀のイギリスみたいな雰囲気ですよねぇ。「ハリー・ポッター感」凄くて。

かつては正式名称がありまして、「横浜税関新港埠頭倉庫」という名前でした。
つまり、横浜港から外国に向けて輸出される品物や輸入した品物を一時保管するための倉庫だったんですね。
2棟ありまして、「2号館」と呼ばれるほうがなぜか古くて1911年(明治42年)。
「1号館」は1913年(大正2年)の竣工だそうです。
外形寸法は「1」が縦77m横23m、「2」が縦150m横20mとなっています。
使用目的のため、海からほんの70mの場所に建てられています。
1989年(平成元年)まで現役で倉庫として使われ、その後再利用のめどが立たず、さりとて解体するにもデカすぎて大変、てことでしばらくほっとかれてたらしい。
(このころの雰囲気が「あぶない刑事(デカ)」のエンディングなんかで残っています)

ま、「バブル時代」だったんでそんな古臭い倉庫に誰も興味を持たず、新しいビルをバンバンブッ建てるほうにばっかり関心が行ってたんでしょうね。
でもまぁ、20数年たって、その「新しいビル」はほとんどただの「中古のビル」になっちゃったけど、「赤レンガ」はウォーターフロントの再開発計画によって横浜を代表する観光名所として、おしゃれなデートスポットとして、見事に甦ったんですからザマーミロというべきか、オヤジなめんなヨ!みたいでちょっと嬉しかったりする(オレ、結構ストレスたまってるなァ)んですが。


しかもこの2棟の倉庫、実は近代日本の建築史上に残る建築物なんです。
設計は妻木頼黄(つまきよりなか 1859-1919)。
彼は横浜正金銀行(現・神奈川県立歴史博物館)も手掛けています。
「鹿鳴館」で有名な明治の大建築家、ジョサイヤ・コンドルの弟子で、兄弟子に「大阪編」でさんざん出てきた「金ちゃん」辰野金吾(東京駅などを設計)などがいます。


妻木は、コンドル譲りのデコラティブな設計思想を持ち、ただの倉庫に過剰、ともいえる意匠を施したのでした。
しかも当時世界最新鋭の設備(電気式エレベーター、専用消火栓、避雷針など)を備え、さらには鉄骨造のベランダまで付けたのです。
また、2号棟に関しては、レンガのあいだに鉄材を組み入れることで構造的な強化がされていて、1923年(大12年)の関東大震災でもほとんど被害がなかったといいます。

これは、「日清」「日露」の大戦争に勝利し、このまま「世界の一等国」に成り上がっちゃるけんのう!という当時の「イケイケな日本」を象徴してると言えるかもしれません。
長い航海を終えて、横浜のふ頭に入港してきた外国船の乗組員たちが、先ず最初に目にするのがこの倉庫なわけです。
そこで一発バァーン!とドデカいのを見せて、「ナメンナヨ」とカマしたかったんでしょうか。
妻木さん、けっこう「ロック魂」あったんでしょうかね。

まあしかし結果的にこうした過剰な設備の「ゴテゴテ感」が、現代においてはかえって「レトロ」な風合いを感じさせ、奇跡の復活を遂げる遠因ともなったわけです。

イェーィ!ロック最高!

で2002年、「1号棟」はイベントスペースとして、「2号棟」はショッピングスペースとしてフルリフォームされ、赤レンガパークとなって「みなとみらい21」計画のシンボルとして人気を集め、2013年には通算来館者数が6000万人を超えたそうです。

イェーィ!妻木最高!

・・・で、正気(本題)に戻りまして、「赤レンガは、なぜ「赤」レンガなのか?」問題なんですが調べたところ、レンガというものは全部がぜんぶ「赤い」ってわけじゃあないようです。
じゃあアレか、「青レンガ」とか「紫レンガ」とかあるんか?というと、そりゃまぁ作ればあるでしょうがあんまりないみたいです。
どういうことか、というと「レンガ」というものは要するに土をこねて型に入れ、熱を加えて固めたもので、その発祥は、約5000年前、メソポタミア地方からといわれています。
当時は「日干しレンガ」といって、型に土を入れたら太陽に晒して乾かして、お終い。というとっても簡単なものだったようです。

これは土の色そのものですから砂漠地方の、黄色みがかった薄茶色のものが多いようです。

それでも大雨や大河の氾濫などさえなければ建材としては十分な強度を備え、場所によっては数千年前の日干しレンガによる建物などが現在も使われていることもあるようです。
もっとも、地震に対してはひとたまりもなく、イランや北インドなどではたびたびこうした建築のために多くの人が地震で犠牲になったりしています。合掌

さて、その後、材料に炎による熱を加えてより強度を増した「焼成レンガ」がつくられはじめ、紀元前にはすでにエジプトからギリシャ、ローマ、あるいはインド、チャイナへと伝わることになるのですが、当時これらの地域では主に石材が一般的な建材であり、童話「3匹の子ぶた」に出てくるような、小屋程度のものはともかく、巨大な建築においてはレンガは補助的な材料とされていました。
石や木でできた建物に「化粧タイル」のように表面を装飾するために用いられたのです。
チャイナの万里の長城なんか、この典型ですよね。

18・19世紀になって、「産業革命」による機械化が進み、またコークスなどで強い火力が得られるようになると、より強度が高く火に強いレンガが造られるようになります。
この時期にはじめてレンガは大きな建築物の主要な建材として用いられるようになりました。 
つまり、レンガ建築というのは、ヨーロッパにおいても「近代」を象徴するモダンな建物だったのです。

ところで、例えば陶芸の焼き窯などに用いられるレンガは赤というよりクリーム色のものが多い、あるいはピザを焼く窯などに使われるレンガも、やっぱりクリーム色ですよね。
ではなぜレンガといえば「赤レンガ」なんでしょうか。

実は、明治時代の日本というのはホントに涙ぐましい努力をして、200年の遅れをとった欧米の文明に追い付こうとしていたので、欧米各国の「いいとこどり」をしようとしていました。
例えば、船舶関係は海軍も含めイギリスの模倣から始め、美術・芸術と法律(民法典)はフランス、農業と商業はアメリカ、そして医学と科学技術・工業などは主にドイツから学ぼうとしたのです。
レンガももちろん「工業製品」なので、当初は主にドイツからの輸入が多かったそうです。
ところが、ドイツの場合、材料となる土に鉄分が多く、焼き固めると酸化した鉄分の色が出て「赤レンガ」となるのです。ドイツに次いで輸入が多いイギリスも、やはり「赤レンガ」でした。
「横浜赤レンガ倉庫」では、何と2号棟だけで318万個もの赤レンガが使われているそうです(って数えてたんかーい!)

でも、イタリアや南フランス、スペインなどの南欧では土に鉄分が少ないため、「クリーム色」のレンガが多くなるのだそうです。
鉄分が少ないほど熱に強いため、本来なら「クリームレンガ」のほうが目的には合っているはずなんですが、そんな成り行きから後にレンガが国産されるようになっても、日本ではレンガといえば「赤レンガ」ということになってしまったのです。

まあ、今となっては、あの「赤」の風合いが、明治時代からの歴史そのものを象徴するように感じられるわけで、そういえば日本全国にある歴史建造物のレンガ建築というのは、ほとんど「赤」ですよね。(わが母校にもそんな建物がいくつかありましたなぁ)


その中でも特に「横浜赤レンガ倉庫」は、横浜の港を背景にそびえ立つおしゃれな外観と、多彩でハイセンスな商業施設によって、今や最も有名な「赤レンガ」といって過言ではないでしょう。
そうそう、夜景も最高に素晴らしいんですよ。ライトアップされてて。

「モーションブルー・ヨコハマ」は、そんな「2号館3F」にて、あなたをお待ちしています。
とーってもイイ雰囲気のお店なので、出来たらお一人じゃあなく、ご夫婦、ご友人、恋人同士、ワケあり、行きずり、何でもいい(知ったこっちゃない)んで、是非、カップルでお越しくださいませ。
あ、もちろん、ご家族、グループ、町内会、婦人会、同窓会、老人会など各種団体様もお待ち申し上げております。

という、以上「ステマ」でした。


それじゃ、6月10日(土)にハマの「赤レンガ」で待ってるぜ!
あ・ば・よ!


明日は、大阪に行ってきまぁーーーすッ!
















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# by simplex-YN | 2017-06-03 00:27
2017年 05月 29日

【横浜はなぜ・・・その1】

ご無沙汰しています。中西保志でございます。覚えてますかぁ?

5
月も末だというのに、さすがに、「桜がどうたら」のままほったらかしもアレなんで、更新しようと思っていたんですが、特に真新しいネタもなく、今日まで月日が流れてしまいました。まあ僕はyoutuberではないので、そんなに身辺にポロポロと面白い出来事はないんですが、そういえば今回のツアー、

「なんで東京じゃなくて横浜なんだろう」

と思った方はおられませんか?

その理由、


実は僕もよくわかりません!(きっぱり)

そういうブッキング周りは「お任せ」なので。


そっちの「謎」より、僕が関心あるのはもっと大きな「謎」なんです。

「横浜は、なぜ「横浜」なのか?」

あー、これ考えたら夜も眠れない。地下鉄はどこから入れるのかと同んなじくらい気になってしょうがない。


通常、都市というのはそれなりの歴史の積み重ねで少しづつ発展し、ときには衰退し、再び発展、というサイクルを重ねて成長していくものなのです。

例えば、東京(江戸)は徳川家康が造ったように思われますが、そのはるか以前、平安時代後期から「江戸氏」という豪族が治め、室町時代には関東管領・扇谷(おおぎがやつ)上杉家の所領として家宰・太田道灌が統治しました。

大阪(大坂)は以前この稿で書いたように、古くは古墳時代からの長ぁーい歴史があり、また横浜とよく似た港街の神戸(福原)も、少なくとも平安時代にまでさかのぼる歴史を持っているのです。

それらと比べて、「横浜」というのは全く異質な、本当に突然現れた
「ロックスター」のような街なのです。


わたしたちの日本が「神話」や「伝説」から、「歴史」と呼んでいい時代に入って現在(2017年)までで、おおよそ1600年と考えられています。

「横浜」は、その最後の10分の1ほどの期間にまさしく彗星のように現れ、瞬く間に世界有数の超巨大都市にまで発展を遂げました。



それにしてもなぜ、「横浜」なのか。

なぜ「神奈川」じゃあないのか。

ちなみに神奈川湊というのは鎌倉時代にまで遡ることのできる由緒ある港町なんですが、なんで「神奈川市」にならなかったんでしょう。



それには皆さんも教科書でよくご存じの、あの

「ペリー提督」が絡んでいるらしいのです。


それはさておき、現在私たちが「ザ・ヨコハマ」と信じているほとんどの土地が、300年ほど前まで「海」だったのをご存知ですか。

実は江戸時代初めの「ザ・ヨコハマ」は、こんな感じでした。


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つまり大きな入り江だったんですね。
方位がずれているので補正すると、上が西南になります。
念のため現在の地図と重ねたものがこれです。


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ほとんどの横浜の観光名所は、海に沈んじゃってる感じですね。

このあたり一帯は幕府の直轄領、いわゆる「天領」だったため、財政難の幕府は米の増産を図り、江戸の材木商・吉田勘兵衛に開墾することを許可し、その命を受けた技術者・黒田スケベー、じゃなかった助兵衛らによる干拓・開墾が始まるのです。

幾多の困難の末に17世紀末ごろ新田は開かれ、

「吉田新田」

と呼ばれました。

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しかしこれはあくまでも「新田開発」であって、今日につながる「街づくり」とは全く関係ありませんでした。

その後、河口付近の部分を三河出身の太田屋左兵衛が干拓し、

「太田屋新田」

としたのが、ペリー来航直前の1850年というから、ギリギリ間に合ったというか。
もっともこのころでもまだ「吉田」と「太田屋」の間には大きな沼があり、橋が架かっていたそうです。
(後にこの、太田屋新田のあたりに「外国人居留地」ができ、吉田新田にできた日本人街と区別する意味でこのあたりを「関内」と呼んだそうです)


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そして1853年(嘉永6年)、ペリー提督率いる「米東インド艦隊」は、浦賀に入港。「日本国王」宛てに開港と交易を要求したアメリカ大統領の親書を手渡そうとしたが、幕府によって拒否され、翌年の再来を約して去っていきます。

1854年再び現れたペリー艦隊は、浦賀では首都(江戸)から遠すぎて交渉に不便であるとの主張を突き付け、強引に現在の横浜港沖に停泊します。

幕府は大慌てに慌てます。

ペリーの上陸を許すにしてもこれ以上近づかれて、多摩川沖を越えられたら江戸の街が大砲の射程距離に入っちゃうからです。
しかも神奈川は「東海道五十三次」の宿駅であり、もしこんなところを抑えられたら東西の交通が分断されて戦略上ひじょーにマズい、ということになります。

そこで、幕府役人が考えた「猿知恵」が、当時埋め立てられたばかりで、「宗閑嶋(
しゅうかんじま)、洲干嶋」とよばれていた

横浜村(現在の「元町」「山下公園」のあたりと推定)

に、突貫工事で陣屋を立て、ここでパパッと交渉しちゃおう、という作戦でした。
こうして日米和親条約は、横浜村での一か月間の協議の末無事に締結されたのでした。

それまで、せいぜい7080軒ほどの淋しい漁村でしかなかった横浜村は、にわかに日本史上の一大イベントの舞台となり、これ以降、外国人居留地ができ、さらに明治の世になると、旧い時代の利権やしきたりにとらわれず、広く海外に開かれた全く新しい都市として急速に巨大化していくことになります。
「ロックスター」誕生!
の瞬間ですね。

実はそれ以前の、河口に突き出した「宗閑嶋」を埋め立てた名残りが、はっきりとわかる場所があります。
それはなんと、


「横浜中華街」


なのです。

行かれた方ならご存知かと思うのですが、「中華街」の道はなぜか周囲の道路の向きとは正確に45℃斜めにずれているのです。以前はこれを、

「この地に住みついたチャイニーズが、【風水】によってこのような街並みに造り替えた」

なーんて話がまことしやかに言われていましたが、違いますこれは、「大田屋新田」を埋め立てる前に、横浜村付近の入江を小規模に干拓した新田の名残りなのです。
これを

「横浜新田」
といいます。
この新田を開発するとき、海岸線に対して「斜め45℃」の畦道を作ったのが、今も残っているのです。中華街は、ほぼこの「横浜新田」上に築かれています。


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6月10日

「横浜モーションブルー」

にお越しくださる方は、是非時間をとって、横浜の歴史を感じていただきたいと思います。



あ、そうそう、
「横浜はなぜ横浜なのか?」問題

なんですが、横浜村の由来は各種ありますが、一番説得力があるのは、例の
「宗閑嶋」

が、入江にフタをするように長く伸びているさまを表している、という説です。

つまり、「横にある浜」とか「浜の横」とかという意味じゃなく、


「河口に長く【たわる】、のある村」


という意味だったのです。

これが、僕が調べた「結論」なんですが、


スッキリしましたか?


ご意見などありましたら、またお知らせくださいませ。




【おまけ】

ところで、結果的にとはいえ大都市「横浜」誕生のきっかけを作った

マシュー・ガルブレイス・ペリー提督(17941858


なんですが、実は彼、母国アメリカではあんまり知られていないマイナーな人物なんです。


「どうせ日本のことなんかアメリカ人は興味ないのさ、フン」

なんてヒネクレないで。
本当のところは、彼にはちょいとした「不運」が付きまとっているんですね

というのは、「ペリー提督」という人物じたいはアメリカでは非常にポピュラーなんだそうです。


「ぺリー提督? ああ知ってるよ。教科書に載ってるもんね」

てな具合。


え、どゆことどゆこと?

はい、実はですね、
もう一人「ペリー提督」がいるんですよ。何と彼の実兄に、
オリバー・ハザード・ペリー(
17851819

という人がいまして、こちらも海軍提督だったんですが、

この人のほうは「第2独立戦争」といわれた米英戦争1813)の英雄として、街の名前から軍艦の名前にまで使われている、という超有名人なんです。
で、なまじ同んなじファミリーネームだったために、我らが「マシュー」君は常に兄貴の影にかくれちゃうんですね。

しかもオリバー兄貴のほうはかなりの「イケメン」(まぁ肖像画しかない時代の人なんで、そのへんはどうにでもなったんですが)だったのに、マシュー君の時代になると残念なことに写真が発明されていたために例の、「赤鬼」(とホントに呼ばれてたらしい)みたいな白黒写真が残ってるんですね。


まオレも似たような経験(?)無いでもないんで、君の気持ちはよくわかるぜ、マシュー!











































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# by simplex-YN | 2017-05-29 23:54
2017年 04月 19日

【お開き】

あっという間に、「2週間の宴」はお開きとなりました。

                  
                 あれ、
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少しだけまだ残ってるようですね。


ほんの10日ほど前は・・・

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こんな感じだったり、
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こんなだったりしたんですが。

どうやら、次の新しい季節がそこまで来ているようですね。

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この春、スタートした皆さん。
長い道のり、一歩一歩踏みしめて、少し疲れた時には上を見てみましょう。


頭の上では、やさしく花が微笑んでいるかもしれませんよ。
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# by simplex-YN | 2017-04-19 23:44